眉をおとして。
 お歯黒にするのは、この時代の人妻の証であった。

「隠してたわけじゃないわ。 でも風太郎はお嫁さんを貰ってからは、なしのつぶてだし。 気儘なんか音信不通で、伝えようがなかったんだわ」
 上目遣いで、お楽がちらっと気儘之介の顔をみた。 …それを言われては、何も言えない二人である。
「源爺は? 久し振りに顔が見たかったんだが」
 申し訳のように、風太郎が話題を出した。
「それがねぇ。 腰を痛めちまって今、湯に行かせてるのよ」
 お楽も、それは受け合い。
「寒いうちは休んでもらって、あったかくなったら迎えにいく約束なの」
 二人に導かれて男二人、赤提灯の傍の暖簾をくぐった。
 店の中は、人の熱気で外よりは暖かい。
cara1-5.gif「うぅ…」
 気儘之介がうめく。
「何だ、気儘之介。 どうした」
「焼いた魚に、海苔の炙ったのに、漬物だ…。 ちんちんに沸いた鉄瓶だ…」
 店の匂いを胸一杯に吸い込んで、早くも涙ぐんでいる。 …これは不味いかも知れない、と。 早くも風太郎は、お楽に叫んだ。
「二階の部屋を、今日は貸してくれないか」
「いいけど、あそこは掃除もあんまりしてないし。 ・・・相変わらず汚いわよ。 店じゃ駄目なの?」
「二年ぶりなんだよ・・・俺も、あいつも。 だからゆっくり話したいんだ。 ・・・金は今日は俺が払うから、今晩はあいつの為に、好きそうな物を見繕ってやってくれないか」
 お楽は肩をすくめて、厨房へと入ってゆく。 すまないと風太郎は、心の中で両手を合わせた。
 独身だった頃は何しろ、風太郎は穀潰しと呼ばれる三男坊。 財布の中身は余りにも軽く、いつも飲み代などの軍資金は、気儘之介任せになりがちであった。
 ・・・一時には、風太郎。 侍を捨ててこの店で、酒の肴を拵える生活を・・・決心したこともあった。
 どこか婿にでも行く以外、生きる道の全く無かった風太郎に、波和湯の家を紹介したのは気儘之介である・・・。
 お楽が、うふっ・・・と笑う。
「・・・昔はよく。 魚を釣って来たものよね」
「・・・あぁ。 釣った魚を、飲み代に変えてくれとな。 ・・・あんな言葉を源爺は、よく許してくれたものだよなぁ」
 風太郎にとっては、恥ずかしくて。 そして、懐かしい思い出である。
cara1-17.gif「だって、風太郎が。 ・・・気儘に、いつもたかっているみたいで嫌だなんて言うんだもの。 おじいちゃん、困ってたわよ。 でもそのすぐ後に、気儘まで魚を持って来て。 ・・・おぅ、これも足しにしてくれなんて事、何回もあったわよね」
 こらえ切れずに、二人は笑った。 ・・・全く、何と言うことだろう。
「魚なんて釣らなくたって、あいつは食べていけるんだ」
 お楽も、それは受け合う。
「そこが気儘の、付き合いがいい所なのよ。 ・・・二人が来なくなってから、あたし、さみしかった」
 風太郎は、思わず黙った。
 ・・・・・・本当は、何回か。 ・・・この店の前を通ることが風太郎に、まったく無かった訳ではない・・・。
 この暖簾を、潜りたくても潜れない友を思うから。 風太郎はあえて、潜らなかったのである。
 その、友だが。 二階に直通して欲しかった風太郎の気持ちに反して、やっぱりやりたい放題の挨拶を交わし。 人の食べている肴の味見をし、そしてもう何人かには一杯注いでもらって、機嫌がいい。
「風太郎も、一杯飲めよ。 懐かしいぞ、この酒の味」
 日頃は江戸の藩邸で、こんな居酒屋よりは余程高価な酒を飲んでいるはずなのに。 ・・・ここの酒も、飲みつけた味で悪くはないのか、一向に不味くはないらしい。 ・・・さぁ、と風太郎は気儘之介に声をかけた。
「二階を借りたぞ。 そろそろ上がろう」
「俺は、ここでいいのだ」
 案の定、駄々をこねる気儘之介を風太郎は、小声でたしなめた。
「……お前。 ここでは、お城の愚痴は言えないぞ」

 取り敢えずは、海苔の炙ったのを肴に差し向かい。 注しつ注されつで、久しぶりに二人は杯を交わした。
 ・・・ところで。 この店は、二階へ上がる為には、梯子を掛けて上がるようになっている。 もしも気儘之介に何事かあれば、この梯子を引き揚げ、すぐ窓から連れ出せるのだ。
 ・・・風太郎はその思いからお楽に、二階を使わせてもらえるように頼んだのである。 だから階段は、二人が上がるとすぐ、風太郎の手で引き揚げられている。
 それでは、酒や肴はどうするのか。 なんと、お膳に紐を通して。 ぶらりぶらりと、一階と二階を行き来するのだ。
cara1-6.gif お楽が気を利かせて、自分たちで好きに飲めるように、火鉢に鉄瓶をかけてくれた。 酒は樽ごと運んでくれたしで、二人はのんびりと火鉢にあたりながら、海苔の炙ったものを、口へ運んだ。 風太郎はそうでもないが、気儘之介は感激している。
「・・・これは、屋敷では食べられないなぁ・・・」
「でも、これ以上のご馳走を毎日食べてるんじゃないのか、気儘之介は」
「いやぁ。 ・・・それなんだ、風太郎」
 お猪口で一つ、気儘之介はグイッと飲んで喉を湿らせる。 
「確かに料理は豪華で、俺も初めは喜んだ。 だがなぁ…」
 気儘之介の住む江戸屋敷では、そこで暮らす者全員の食事を台所で整える。
 まずは料理を全て作り上げて、・・・それから。
「一応俺と兄上は、藩主の息子だからなぁ」
 必ず、どんな料理にも毒見がつくらしい。 どんな豪華な料理も、気儘之介達の前に並ぶ頃には冷め切ってしまい。
 ・・・子供の頃から。 熱いものは熱く、冷たいものは冷たいうちにと食べていた気儘之介には、それがどんなご馳走でもやはり、味気なく感じるのだという。
「酒だけは、冷やで飲めば一緒だけどな」
 そうはいっても。 藩主の息子が毎晩のように、飲んで管を巻いているわけにもいかない。
 何とかならないかと色々、気儘之介としても工夫はしてみるのだそうだが。 ・・・なかなかに、上手くは、いかないそうな。
「いっそ、俺に台所をさせろと言いたくなることもあるぞ。味付けは薄いし、冷たいし。俺が町に出て自分で手に入れてきて、自分で出来たらと思う」
 自分に自分で、毒を盛る奴はいないだろう、・・・そう言って。 気儘之介は、あはあはと笑った。
 そして自分の作ったものを、兄の律之進にも食べさせたいという。
「だって、お茶ひとつ熱いものは飲めないんだぜ」
 ・・・唐突に。 気儘之介は、そんな事を言う。

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