「ともかく。 屋敷に、入ろうではないか」
 先に立って門を潜り、成政候はさっさと、波和湯家の玄関へと向かう。
 家に仕えている者達の方が、余程に心得ているらしい。 成政候の足を清めにかかるやら、何やら・・・見ていて、やる事にぬかりがない。下男が風太郎に気付いたところで、早速、あの方が何時頃ここを尋ねられたのか・・・と、聞いてみた。 すると。
「たしかもう・・・。 日は、暮れていましたかなぁ・・・・・・」
 初めてあの方に気が付いたのは、風太郎の妻である里絵・・・であったそうな。
 屋敷の、玄関の前で。 馬を引いた男が、何やらウロウロと探し物をしている様子。 こちらから声を掛けてひとまず、客人として預る事にした。
 ・・・時刻をみると丁度、夕餉時である。 里絵は思い悩んだ揚句、波和湯の家で支度していた極々普通の夕餉で、客人をもてなした。 客人用の食事の支度をする余裕が、なかった訳なのだが。 それを客人は、それはそれは楽しんで摂られたらしい。 ・・・そして湯にも、入ったのだという。
 …これを、どう解釈したものか。 
 難しい顔をした気儘之介が、おりよに足を清めてもらった処で。 初めて里絵が、顔を出した。
cara1-13.gif「これはこれは、里絵殿。 ・・・相変わらず、お美しい・・・」 
 振り返って、気儘之介。 そこは如才ない。 ・・・もともと風太郎を、波和湯の家に世話したのが気儘之介である。 当然、顔を見知った仲なのだ。
 気儘之介はまず、波和湯家の以前の当主、つまり里絵の父に当たる春重(はるしげ)の、悔やみを述べた。
 …葬式にこそ、出られなかったものの。 丁重な悔やみの手紙と、法外な香典を貰っていたのでそこは、夫婦二人でその礼を述べ。
 そして里絵は、風太郎の前にも手を付いて頭を垂れる。
「お帰りなさいませ。 お迎えをするのが遅くなりまして、申し訳ありませぬ」
 風太郎は下男の手を借りず、足を清めようとしていた所であった。 もともと婿入りしてからも風太郎は、自分の事は自分でやろうとする。 ・・・そこが、里絵には気に入らないのか。 急に、その役を買って出た。 
 ・・・この儀式はいつも、あったり、なかったりするのだが・・・。 友人の手前、風太郎は嫌だった。 しかしながら以外に、里絵。 言い出したらきかない所がある。
 結局、風太郎が負け。 里絵に聞くとあの方は、今は客間で火に当たっているらしい。
cara1-17.gif「…湯にも入られたのですから、客間でお待ち戴いてはと申し上げました。 …でも気儘之介さまの事が、大分気になっておられるご様子で」
 結局、四半刻(三十分)程か。 門の辺りで、二人の帰るのを待っていたという。 気儘之介は、夫婦が語り合う様をじっと見ていたが。
「では俺もあの方のように、湯にでも入らせてもらおうか」
と・・・、言った。 とんでもない、と。 言いかける風太郎を遮って、里絵がさわやかに微笑んでみせる。
「どうぞごゆっくりに。 あのお方のお相手は、私と主人が承りますから」
 ・・・・・・絶句・・・した、気儘之介をおいて。 足を拭いた風太郎に、里絵はぽんと手を打ち鳴らしてみせた。
「さぁ。 急ぎませぬと、あのお方をお待たせする事になります。 お早く、お召し変えを」
 それは、そうだと。 風太郎が受けて、急ぎ足に玄関を上がりかけ。 そして思い出したように、不意に・・・友を、振り返った。
「おい、気儘之介。 あ、様っ」
 ・・・思いもかけず、絶句したままの気儘之介を、風太郎は。 いつもの少し自信のなさそうな笑顔で・・・見詰めて、言うには。
「せっかくです。 …ごゆっくり御寛ぎを」
 言い終えて、この家の主。 あたふたと、走り去って行く。 
 ・・・その時。 気儘之介は、あぁ・・・俺は、この男に迷惑をかけているのだな…と思った。 思ったが、あの男とすぐに話が出来る自信がなかった。
 それを風太郎が悟っていたのかどうか……。

 着替えは自分でするという風太郎と別れて、里絵が気儘之介を、湯殿へと案内をした。
 気儘之介が、ふと・・・。 里絵の方を、振り返る。  
「そうだ。 ・・・あの人の事を里絵殿は一体、何処で知ったのかな」
cara1-14.gif 藩主の顔など。
 里絵程度の身分の者が、 知っている筈がない。
 気儘之介と春重。 つまり、里絵の父親だが。 知り合ったのは、江戸のさえない蕎麦屋であった。
 蕎麦屋に将棋板があったのが、二人の運のツキ。 二人は実力伯仲で、仲良く将棋で鎬(しのぎ)を削る仲となった。
 仲良くなれば、仲良くなるほど春重は、気儘之介が欲しくなった。
 身分を知らなかったとは言え、娘である里絵の婿にと望んだのは当然の、なりゆきであろう。
 ・・・したが故に、里絵と気儘之介は互いを見知る仲となった。 ・・・ゆえに、気儘之介の身分をも知る事になる。
 波和湯の家が、江戸詰めのお家柄であることを。 春重は、何気なく語っていた。
 この程度の・・・と言ってしまっては、身も蓋もないが。 この程度の身分の、しかも江戸詰めのお家柄の娘で、どうやって藩主を見分けたものだろう・・・。 今更ながら、里絵の聡さ(さとさ)には、舌を巻く。
 ・・・安毛良(あっけら)藩はのどかで、良い藩ではあるのだが。 なかなか米の収穫高がはかどらず。 未だ、努力を重ねている藩である。
 夏の7日ほど日照りが続けば、その日以外は雨が降っても、収穫には変わりがない・・・と、百姓は言うが。 逆にその7日間を外してしまえば、どうしようもなくなってしまう。 米の収穫によってはその年の、国力にも関わってくるのだ。
 したが故に。 藩主・葉々成政(ぱっぱ・なりまさ)候は、江戸には必要以上の長居はせぬ。
 江戸詰めの。 しかも、一介の。 下っ端役人の娘ごときが、藩主の顔など知る筈がない。 
「・・・はい。 それは・・・・・・」
 ・・・さすがの、里絵も。 一目で・・・という訳では、なかったと言う。

 昔この家には、奈津・・・という女中が、仕えていた。
 今はもう里に帰ってしまったが、甘味好みの里絵に、珍しい土地の菓子を送ってくれたのだ。 ・・・同じく甘い物好きの、隣りの奥方にもお裾分けをと。里絵は、届けたついでに一喋り。 帰って来た所で屋敷の前に、馬を引いた男が立っている・・・のを、見た。
 男は里絵にすぐに気付き、この家は波和湯の家かと尋ねる。 そうだと言うと、もうすぐお主の主人ともう一人。 ここへ来ると言う。
cara1-16.gif「この家でその人を、待たせてもらいたい・・・と、仰るので」
 よくは判らないが、外の寒さで凍えさせるのも気の毒と。 ともかく里絵は、風太郎の帰りを待つ事にして。 下男に、隣家へ馬小屋を借してもらえるよう、交渉に行かせた。 何しろ波和湯の家には、馬小屋はない。 ・・・先程の菓子の効果か。 隣人は快く、その件を引き受けてくれた。
 ・・・また明日にでも何か持って、御礼に参りましょう…。
 安堵して里絵は、初めて。 ・・・馬の鞍に、家紋が掘り込んである・・・事に、気が付いた。 見ると男は、苦笑いをしている…。
 浜茄子の紋、いつもより遅い風太郎の帰り。 そして尋ねて来るという…客人。
「これは気儘之介様が、悪さをなされたのだと、私は思いました」
 里絵が、鈴を振ったような声で笑って。 気儘之介は思い切り、気まずい顔をしてうなだれた・・・。
 それではごゆるりと。
 里絵は言って、素早く踵を返した。 気儘之介も客人だが、この家にはあの方が居らしている。 この家の主の妻として、色々と采配を振らなくてはならぬ。 里絵の気丈な背中を見送りながら、気儘之介はひとつ、溜息を付いた。
 …それにしても、と気儘之介は思う。
「結構な、・・・夫婦(めおと)振りではないか・・・」
 二人が祝言を挙げるより先に、母である菜花と供の者を連れて、気儘之介は国許へと旅立っていた。 二人の夫婦振りを見たのは、今回が初めてで。 …そして。 風太郎は、何のかのと言いつつも、幸福そうに気儘之介の目には映った。
「……喜ばしい…」
 案内された、風呂場の中で。 気儘之介は一人、目を閉じる。
 ・・・友の為には、喜ばしい事である。 共に、喜んでやるべきことなのである。
 それなのに、気儘之介。 …何とはなしに、つまらかった…。

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