嵐のような、一日が過ぎて・・・。

 気儘之介が目覚めると、既に当館の主である風太郎は、安毛良藩の江戸屋敷に出邸した後であった。
 里絵はと言えば、昨夜馬小屋をかりた隣家に挨拶に出ている。
 気儘之介の食事は、言いつけられたものか、女中のお理世が甲斐々々しく世話をしてくれた。
 ・・・本日の朝餉のおかずは、目刺が二匹と、里絵が漬けたという沢庵が三切れ。
 そして、これだけは具沢山の大根の味噌汁といった献立である。

「・・・・・・ふむ」
 夢にまで描いていた暖かい食事と、好きなだけ眠れる生活・・・。
 限られた期間とはいえ、満喫しまくるつもりではあったが・・・何やら。
 思ったよりは詰まらなかったと見えて、気儘之介はひとつ、溜息をついた・・・。

 思えば、江戸の長屋住まいの頃が。
 ・・・気儘之介にとっては、至福の時であった・・・ようだ。
 冷や飯食いの風太郎と二人、また風太郎はよく気儘之介の家に泊まっていったものだ。

cara1-15.gif 当時の江戸の長屋の一間と言えば、畳六畳の広さの中に、半間の玄関に台所・・・といった所帯である。
 現代で言えば、畳五枚分の広さに気儘之介親子と、風太郎が眠っていたものである。
 狭い事この上ないが、当時は家具といった物を殆ど持っていなかった親子所帯だったので。
 肩身を縮めて、身を寄せ合って寝るのも、楽しかったものだ。
 風太郎が泊まる時には、菜花が何かしら夜食を作っていてくれた。
 道場で、散々に暴れてきた気儘之介と風太郎にとって、それは一番の楽しみであった・・・のであるが。
 ・・・二人が成長をするにつれて、徐々に例の、幼馴染のやっている赤提灯に通うようになってしまい。
 期待の夜食よりも、酒や肴の方に少しずつ、気が削がれていくのであった・・・。
 菜花には、それが少し寂しかったようだ。

 だからといって、安毛良(あっけら)藩の国元にある本邸での生活が果たして、菜花にとって幸せなものなのか・・・。
 菜花は屋敷内に畑を作って、好みの野菜を植えたり、花を育てる生活をおくっている・・・そうな。

 気儘之介が朝餉を済ませた頃、里絵が隣家より戻ってきた。
「あら、おはようございます、気儘之介様」
 嵐のような昨夜の後とは思えないほど、本日の天気は快晴である。
「本日は、いかが致しますか? 気儘之介様。 主は、何でも好きにやらせて差し上げろ・・・と私に申し付けてまいりましたが」

cara1-21.gif 好きに、・・・・・・か。
 気儘之介は、心の中でくすりと笑った。
 ・・・昔は好きな事が、随分とあったようにも思われるが・・・。
 今の今日、しかもこんなに晴れ渡った日であるのに、何故だかそれが、思い付けない。

 ・・・その頃の風太郎は、相も変らず書類の渦に埋もれている時間を・・・過ごしていた。
 先日、平仮名をマスターしたものの、今度は漢字を書くのが難しい。
 上役の達磨包盛(だるま・ほうせい)が、本日も根気良く風太郎に仔細を教えて下さるのだが、そこは・・・風太郎。
 波和湯家に入り婿をして、里絵と夫婦(めおと)になって今年で三年目。
 三年も経てば、お役目にも慣れたであろう・・・と言われるのだが、この内一年は風太郎の養父である波和湯春重が勤めていたものである。
 また『お役』というものは、年月と共にやり方が変ったり、流れに変化が生じるものである。
 ・・・慣れないお役目を務める内、何を思ってか二度ほど『お役目変え(現代で言えば人事異動)』があったせいで・・・風太郎。
 ただでさえ判らぬ書類が、更に難しさを増したように思え、実に倒れそうな・・・今日、この頃なのである。

「波和湯、ゆっくりで良いからな。 少しずつ、覚えてゆけばよい」
 ・・・達磨氏はそう言って下さるが、風太郎の仕切れぬ仕事をずっと、同役の東大幾之介(とうだい・いくのすけ)などが分担、肩代わりしてくれているのを知っている。
 少しでも早く仕事を覚えて、せめて、己の分担の仕事くらいはこなしてみせたいと意気込む風太郎で・・・あるが。
 思うばかりで、なかなかに果たせずにいる・・・今日、この頃なので・・・あった。

cara1-9gif.gif「そう言えば、波和湯。 昨夜の奇天烈な男は一体、何者なのだ」
 ・・・いつもは声すら掛けてこぬ筈の幾之介が、珍しく風太郎に問うた。
 風太郎の脳裏を、昨夜の事が鮮やかに駆け抜ける。
 ・・・上様の騒ぎで、すっかりと忘れていたものの、そう言えば昨夜はこの男に会っていた。
 町中ですれ違って挨拶をしただけだが、あの・・・気儘之介の容姿が、同役では一番の切れ者の幾之介には覚えられてしまったらしい。

 ・・・たしかに。
 昨夜は気儘之介、ボロボロのもう、捨てるしかないような古着を着てさらに、泥で煮しめたような手拭で頬かむりをして、何故か大刀小刀の二本を、腰に差していた姿で・・・あった。
 何者・・・と問い質されたとしても、不思議はあるまい。
「そういえば、愉快な連れがあったな、波和湯。 あれは、そなたの友人か?」
 達磨も、その話に乗ってきた。
 ・・・振り返れば、風太郎。
 江戸藩邸に勤務をするようになってから、連れを伴って出邸した事もなければ、仕事仲間と共に飲みに行くことなども殆ど無かった・・・と言って良い。
 それは風太郎が、暗い性格だったからではない。
 ただ単に、己の仕事が全うできるようにと自宅で、必死に筆を走らせていたので。
 ・・・仕事仲間と、交流を持つ程の余裕を欠いていたせいである。
 風太郎が、必死に仕事に付いて行こうとする姿は、達磨も誰も、よく知っている。

 さて、と・・・・・・困った。
 気儘之介の素性を、明け透けにここで語る訳にもいかない。
 ・・・考えてみれば、ここは安毛良藩の江戸屋敷。
 気儘之介は、この領主の実の息子である。
 ・・・普通に考えてみれば、そんなさるお方と、風太郎などが知り合いになぞ、なれる筈がないのである。
 話せば長すぎる話になるし、かと言って語って良い話ではない。
 人によっては、気儘之介を利用して出世を望む者だって、出かねないからである。

cara1-12.gif 考えて。 風太郎は、かいつまんで話すことにした。
 ・・・この程度であれば、人は疑わずにいるだろう・・・という、判断であった。
「あれは、気儘と申すものです。 道場に通っていた頃、私とはよく馬があって、飲みになど出掛けたものなのです」
「ふーん、あの奇天烈な格好は何なのだ?」
「・・・あれは・・・。 先日あれの里で祭りがございまして、その出で立ちを私にどうしても見せようと・・・ふふ、皆様の思われる通り、本当に風変わりな奴なのでございます」
 以外に、落ち着いて答えた・・・風太郎。
 元来、無口な風太郎がすらすらと答えると、何故か信憑性が高まるものである。
 ・・・仕事仲間は、気儘についてはそれ以降、何も尋ねなかった・・・。

 仕事が終って、いつもの道を波和湯家に急ぐ。
「よぉ、風太郎!」
 声を掛けられ、風太郎は恐る恐る・・・後ろを振り返った。
 ・・・思ったとおり、声の主は気儘之介なのである。
 とはいえ、本日の出で立ちは風太郎も見た事のある着物の着流し姿。
 髪は綺麗に整えられて、ちょっと品のある処など、どこかのいい家の冷や飯食い・・・といった姿である。
「里絵殿は、凄いなぁ。 髪から何から、全て面倒をみてくれた」
 編み笠を目深に被り、一目で気儘之介とは判らぬよう、工夫がされている。
 ・・・さすが、才女の里絵。
 文句の無い出で立ちである。

「・・・どうしたのだ、こんな所まで」
 風太郎が問いかけると、気儘之介はちょと微笑い。
「いざとなると、行く所がなくってな・・・」
 そんな友人に、風太郎もまた笑って見せた。
「岡場所にでも、行けばどうだ」
 言われて・・・気儘之介、両手を団扇(うちわ)のようにブンブンと振って見せる。
「やめてくれ。 あの男の思うツボにはめられそうで、気分が腐るわ」
 二人はそこで、思い切り笑い合い・・・何気なく、波和湯の家路を辿り始めた。
 ・・・いつもは一人で急ぐ家路も、二人でぶらぶら歩く方が心地良い。

「あら、風様・・・?」
 cara1-22.gif 二人が振り返ると、店先から顔を出した者がある。
 ・・・小粋で、色っぽい・・・・・・。
 昨夜に出会った、赤提灯の『お艶』とはまた違った・・・色っぽさなのである。
「お千かい、久し振りだ」
 小間物屋の店先から、顔を出した女・・・。
 三味線弾きの『お千』という名で、気儘之介親子が二人長屋で暮らしていた頃の馴染みである。
「風様に、気儘・・・ほんと、おひさしぶり・・・」
 袖の袂を持って、小首を傾げたような仕草がまた、色っぽい・・・。
 ・・・・・・そして、珍客が・・・もう一人。
「よぉ、風太郎じゃねぇか。 久し振りだなぁ」 
 ・・・のどかに声をかけられ、風太郎が振り返ると。
 風呂敷に結構な荷物を抱えた、町人風な男が目に付いた。
「り・・・陸太郎兄上っっ」
 担ぎ荷に、いなせな出で立ち。
 風太郎の、実家の次男。
 風太郎のすぐ上の兄に当たる、阿呂波(あろは)陸太郎の登場である。

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